2012年10月13日土曜日

金太郎は語る

4年前の話。
冬期講習の昼休みの時間、気分転換がてら蚕糸の森公園へ行った。その途中でこんなのを見つけた。



なんとも怪しげな細い道。手前には車止めと金太郎の絵。気になる。
何故気になるかって?んな野暮な…。

高度経済成長期に急速に進んだ東京23区西部の都市化。土地の起伏はそのままに、田畑や雑木林は住宅地と変化していった。
周りが変わっていく地域の中で取り残された小さな川。どぶ川と化した彼らに突きつけられた運命は暗渠化だった。

山手線内側の起伏の激しさは言うまでもないが、山手線西側の土地もなかなか起伏に富んでいる。そこには、人知れずかつての面影を語る細い路地がたくさんある。
これはそのうちのひとつ、小沢川である。。。








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さて。冒頭の写真は新高円寺駅からほど近い五日市街道入口交差点東側(A地点)から南側を見たものである。金太郎を見つけた翌日、どこまで続いているものか歩いてみることとした。

 アパートと住宅の間を細い道が貫いている。
 道路上には数々のマンホール。
再びの金太郎。

ここまでは順調に痕跡らしきものを辿れたが、その先は突然姿を消した。



しばらく周囲を見てみたが痕跡の続きは見当たらず環七まで出てしまった。
時計を見ると1時半、そろそろ塾に戻らんとまずい。

時は流れて2009年3月。浪人が決定し(笑)、ナイーヴになっていた所で妹とガチ喧嘩。
面倒臭くなって家を飛び出したことがあった。(若かったなー)
当時の実家から南西の方へ歩いた結果、蚕糸の森公園から少し南東に行ったところで細い路地と出くわした。それは図らずも、数ヶ月前には見つけられなかった"その先"だった。

夜の流路のイメージ(写真はまた別の日に撮影)

浪人が決まった直後は意外と暇。予備校は4月の中旬からということで時間はあった。豊島区の弦巻川プチ散策の後、新高円寺に立ち寄り行ける所まで歩いてみることとした。


環七を越えるとこのような路地を見つけた。低地にある細い路地。まぎれもなく川の跡である。


ここから下流の方へ歩いてみた。
 右側は高地。道には数多くのマンホール。

 高南中学校の横を通る。

 一旦痕跡を見失うが…
 ちょっと先に再びの痕跡。足を進める。

和田中央公園に達する。
路上には数々のマンホール。
くねくねと曲がる道に蛇行を感じる。
並ぶ住宅。この道沿いにある入口はどれも勝手口に見える。

神田川にほど近い場所でまた痕跡を見失った。やむを得ないので神田川に出て、護岸の壁からこの小川を探索することとした。程なくして、出水口を発見。

後日杉並区立中央図書館に行って郷土誌をひっくり返して調べた結果、冒頭に書いたとおりこの痕跡は小沢川のものと分かったのだった。。。


なお余談ではあるが杉並区内の河川跡はほとんど調べ尽くされていて、その調査結果は杉並区立郷土図書館 編 『杉並区立郷土博物館研究紀要第11号 杉並の湧水と川 杉並区立郷土博物館年報 平成13年度版』にまとめられている。



※ここでは環七を挟む前後の区間をひとつの川として紹介したが、その文献によるとこれらは別々のものらしい。環七西側・真盛寺の池を源流として流れていたが流量が安定しなくなり、北西側へ助水路を掘ったと考えるのが妥当か。
ただその文献を読んだのが3年半前なので確証は得られない。


往来の激しい道路の傍らや閑静な住宅地の脇にある金太郎の絵付きの車止め。
そこに描かれた金太郎は今日も静かに、しかしはっきりと、今となっては忘却の彼方へと消えてしまった小さな川がその地にあったことを物語っている。

                                   (おわり)